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聖徳太子

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紀元607年7月、中国長安にある宮殿小野妹子という日本からの使い到着しました。
長い、海のの間ずっと大事に持って来た政府からの手紙ふところから取り出すと、ゆっくりと読み始めました。
「日出ずる天子書を没する天子いたすつつがなきや...。」
これは、その当時摂政(今のアメリカの副大統領のような地位)として日本の国を治めていた聖徳太子の書いた手紙書き出しの文で、「太陽の出てくるところの国の天子であるわたくしは、この手紙太陽む国の天子に送ります。いかがお過ごしですか...。」という意味文章です。
その、自分の国が世界一番大きくて強い国だと自慢していた中国皇帝は、これを聞いて非常におこってしまいました。
この話は、日本が中国のような大きな国とでも対等交際ができるようになったことをよく表しており、国民のプライドを高め、愛国心深めるできごととして伝えられています。
それまで大和呼ばれていたのが日本と呼ばれるようになったのも、このできごと由来するとも言われています。
聖徳太子このほかに国内でも数多く新しい政治行いました。
それまで家族中心であった役人身分昇格仕方改め本当に才能のある人が高い階級につけるように冠位十二階という方法取り入れました。
また役人が正しく規律法則れるよう、日本で初めて憲法と言われる十七条憲法定めました。
また、この憲法一条にあつく仏教え。」とあるように、仏の教えに国を治めようとしました。
現在奈良残っている世界最古木造建築法隆寺は、聖徳太子用明天皇祭っ建てたと言われています。
このほか、仏教経典をわかりやすく説明した「三経義疏」という解説書も書いて、仏教多くの人に教えようとしました。
このように、政治家としてだけでなく宗教家として、また学者として、より良い日本をり上げようと努力したのが聖徳太子です。
亡くなる以前は、人々に厩戸豊聡耳皇子呼ばれました。
これは、太子がうまやの前で急に生まれたこと、そして、何人もの話同時に聞き分けたという言い伝え表しています。
キリスト教で神の子と信じられているイエスがうまやの中で生まれ、12の年で当時学者以上かったという話と非常に似ている点があっておもしろいと思います。