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江戸時代の俳諧

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最近、アメリカの中学高校でも、英語でハイクを作るのがはやってきた。
俳句俳諧連歌発句)を独立させたもので、俳句呼ばれるようになったのは、正岡子規革新運動以後で、明治になってからである。
しかし、江戸時代既にその全盛期迎えており、松尾芭蕉与謝蕪村小林一茶らの手によって日本文学重要地位占めるようになった。
芭蕉は、当時談林派」といって、滑稽な歌い方を特徴にする流派を学んだが満足がいかず、もっとまじめな自然感俳諧取り入れ自分のジャンル築き上げていった。
古池飛びこむ水の音」という俳句は、自然の静けさの中の芭蕉をよく表し名句である。
憶を山川に廻らし、身を風月に投げ入れ、心と眼前と一枚になるべし」とは自分の芸術対する態度定め芭蕉自身のことばである。
自然対する感覚をさらに豊かなものにするようにと、常にあこがれし、その度に紀行文俳句中心まとめたのである。
この代表的作品が「奥の細道」で、奥州現在東北地方)から北陸地方をまわった時に見た史跡壮観な自然を歌ったものである。
夏草兵共平泉
閑さしみ入るの声(立石寺
五月雨をあつめて早し最上川出羽
荒海佐渡よこたふ天の河越後
このような名所を自分で訪ねてみること、またその歴史的な背景を知らずに芭蕉俳句完全に理解することは不可能である。
芭蕉死没から80年後に、与謝蕪村登場した蕪村画家としても有名で、のような俳句を作った。
菜の花や月は東に日は西に
春の海終日のたりのたりかな
さみだれ大河を前に家二
非常に写実的な俳句で、まるでこのような目の前にしているようだ。
芭蕉蕪村全く違う俳人小林一茶である。
一茶信濃現在長野県)に生まれた百姓の子で、3の時に母に死に別れ祖母の手で育てられた。
祖母死後再婚し継母うまくいかず、15の年で江戸奉公に出され苦労したのである。
このように、家庭生活恵まれなかったことから、庶民的な哀感弱きものへの同情心巧みに俳句表したのである。
我と来て遊べやのない
と子の三人づれや帰る
初夢故郷を見て涙かな
の子そこのけそこのけお馬が通る
やせまけるな一茶是にあり
このように、単なる日常生活感情素直に表現され、それが読む者の心に何とも言えない叫び迫ってくるのが一茶俳句である。
こうして、俳句大衆の間でもてはやされるようになった。
このような江戸時代俳人土台近代の俳句への革新運動起こり、日本独特文芸として世界的に有名になっていったのである。