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伊藤博文

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アメリカで、ジョージ・ワシントンとか、トーマス・ジェファーソンと言えば、独立のために貢献した人として知らない人はほとんどいないでしょう。
同じように、日本でも板垣退助とか伊藤博文と言えば、日本の近代国家基礎を作った人として知らない人はいないはずです。
板垣退助自由民権運動有名ですが、伊藤博文は日本初代の内閣総理大臣として、また大日本帝国憲法起草者として有名な人です。
伊藤幕末長州現在山口県)のという町に生まれました。
このには、その当時学者教育者として非常に有名だった吉田松陰という人がいました。
自宅松下村塾という設けて弟子達教育をしていました。
このからは、桂小五郎高杉晋作など、明治初期に活躍した人々が、たくさん出ました。
伊藤もその一人で、松陰門弟になり、先輩桂小五郎などともとても親しくなりました。
初め尊王攘夷運動に参加しましたが、1863年イギリスへ密航し、帰って来ると自分の意見が間違っていたことに気がつき、尊王開国論を主張して倒幕運動活躍しました。
明治維新後、木戸孝允旧名桂小五郎)と大久保利通からの信頼があって新政府重要地位を次々に受け持ちました。
特に維新の三傑と言われた西郷西南戦争で死に、木戸病死し大久保暗殺されて、それぞれいなくなっていったあと、伊藤新政府中心人物となって活躍しました。
たぶん伊藤成したこと一番重要なことは、1882年ドイツ(プロシア)憲法研究再びヨーロッパに渡り帰国して大日本帝国憲法草案作成したことでしょう。
この憲法は、当時のプロシア憲法手本にして作られたのでそれととてもよく似ており、天皇を国を治める最高権威者として、神聖反対することができない存在定めました。
この憲法は、明治大正昭和と、日本の国家主義軍国主義栄えていく土台になったのです。
この憲法は1889年に発布されましたが、その当時国民には「憲法発布」と言っても通じないものがあり、「絹布発布」と間違えて役場に絹を取りに行ったという話まであります。
伊藤は1909年、日本の韓国政策反感を持つ安重根という韓国の青年ハルピンで射殺され、この世を去っていきました。
終戦後、新しく日本国憲法ができ、伊藤が作った大日本帝国憲法歴史のものとなってしまいましたが、伊藤貢献非常に大きく、明治史上最も重要人物の一人であったと言えるでしょう。