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板垣退助

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アメリカの独立に命をかけたパトリック・ヘンリーの「ギブ・ミー・リバティー・オア・ギブ・ミー・デス」という言葉非常に有名ですが、その百年後、日本でも同じようなことを言った人がいました。
日本は明治維新後、いろいろと新しい政治始めましたが、中央政府主要な官吏職占め、政治の主権を握っていたのは倒幕活躍し薩摩長州藩出身の人々だけでした。
そこで、新政府不満を持つ者、特に出身元武士だった人々が中心になって政府反対をするようになりました。
しかし、とは違い武力を使わず言論を使って攻撃しました。
その中心となったのが板垣退助です。
板垣は、政府だけに政治の力を与えるのではなく、国民の代表が集まって議会を開き、人々の権利や自由を守るべきだと説きました。
そして全国各地演説会を開き、自分の意見に賛成し支持する人を増やしていきました。
そして1881年、日本で初めて政党自由党が作られ、板垣がその初代の党首になり、政府圧力をかけるようになりました。
このように、選挙をして代表者国会に送り、人々の権利と自由をろうと言う運動を自由民権運動と呼んでいますが、もちろん政府はこれに強く反対しました。
また政府以外にも、この自由民権運動者を迫害する者が大分いました。
1882年のことです。板垣が岐阜演説会場で反対派の一人の青年不意に襲われました。
血まみれになって倒れていく板垣退助が、「板垣死すとも、自由は死なず」と言った言葉は、明治名言の一つとして、いつまでも日本人の間で口にされるようになったのです。
このように、自由民権運動盛んになり政府国会を開く必要性認め伊藤博文中心憲法を作り、1890年、初めて総選挙が行われ、議員国民投票選ばれるようになりました。
日本も、板垣退助のような人の犠牲通してやっと国会も開かれるようになり、近代国家としての整っていったのです。