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織田信長

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金閣銀閣建てはなやかな生活楽しんだ室町幕府も、15世紀になると全く力がなくなり、幕府の言うことを聞く者は一人もいなくなってしまいました。
そして、日本中がいろいろな国に分かれ、その指導者である大名が、我も我も京都に進んで、全国治めようと戦い合いました。
このような時代が百年間ぐらい続きますが、これを戦国時代と呼んでいます。
戦国時代有名戦いがいろいろ起こりましたが、特に武田信玄上杉謙信戦い有名です。
信濃の国(現在長野県)の川中島何度も何度も戦いましたが、いつも引き分けに終わり、ついに勝負がつかず、信玄謙信旗をあげて京都に進むことはできませんでした。
16世紀の終わりになって、ようやく尾張の国(現在愛知県)の大名全国統一しかけました。
この大名織田信長です。
信長非常に優れた家来木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や新しい戦争技術などの助けで、次々と大名倒し京都に上りました。
残念なことに、日本統一もう一歩というところで、自分の家来の一人、明智光秀という武士不意に襲われ命を落としてしまいました。
信長は気が短すぎるのでこんなことになってしまったと言われています。
例えば信長は、ほかの大名助けたり応援したりする者は、寺であろうと何であろうとすべて焼き払いました。
京都比叡山にある延暦寺という非常に有名な寺も、立派な建物文化財信長すっかりかれてしまいました。
そのような信長が、恵林寺という寺をき払ってしまえとじました。
敵の兵隊をかくまっていたからです。
ところが、光秀信長従おうとせず、「もう少しお寺お坊さん大切にするように」と勧めました。
すると、信長かんかんにおこって光秀不従順態度しかりました。
また、尾張の国のすぐの国の大名徳川家康信長訪ねて来た時、光秀はそのもてなし責任受けました。
ところが、あまり豪華もてなし方をするので、光秀はまたまた信長しかられてしまいました。
このようなことが積も積もって、光秀は、とうとう信長に対して謀反を起こす決心をしました。
備中の国(現在岡山県)を治めていた毛利家征伐に行く途中信長数人家来本能寺という寺に泊まっていました。
先に出発していた光秀は、方向くるりと変えて本能寺めがけて攻め寄りました。
不意をつかれた信長は、本能寺に火をつけ、その中で死んでいきました。
夜明けの明るくなりかけた空に、本能寺焼け跡くすぶった煙がだんだんと消えていきました。
そのきれいな朝日が見られなかったように、百年も続いた戦国時代平定するあと一歩というところで、信長ついにこの世を去っていってしまいました。
天正10年(1582年)6月2日のことでした。