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徳川家康

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徳川家康が、まだ小さくて竹千代と言っていたです。
家来おぶわれて散歩に出てみると、近所子供達が川をはさんで石合戦をしていました。
おもしろいので遊び半分に見ていると、一人の家来が、「こんなに人数があっては試合にならない。きっと人数の多い方がつに決まっている」と言い出しました。
確かに一方はとても人数が多いのですが、相手ほんの小人数です。
ところが、家来背中おぶわれている竹千代は、「いや、きっと小人数の方がちますよ。」と堂々と声を張りました。
石合戦が終わってみると、やはり竹千代の言ったように小人数の方がちました。
竹千代は、「大勢の方は、人数が多いからと言って油断をしていた。でも、小人数の方は数が少ないので、かえって気を引きしめて力を合わせてやったのでったのだ。」と言いました。
家来はとても感心して、「竹千代様は、きっと戦争うまくなり、立派な大将になられるでしょう。」と言ったと言われています。
この竹千代が、秀吉死後、日本の国を治めるようになった徳川家康です。
もちろん秀吉には秀頼という息子があり、家康もそう簡単に政権握ったわけではありません。
しかし、持ち前辛抱強さ確実さでじりじりと力を増しついに天下分け目の戦いと言われた関が原の戦い勝利を収め、1603年、江戸現在東京)に幕府を開き政治行いました。
この江戸幕府が、1868年の明治維新になるまでの長い間続いたわけです。
家康は、秀吉信長比べると、ものごとの成り行きをよく確かめて、忍耐強く、何事確実にやるたちでした。
この戦国末期の三英雄信長秀吉家康性格をよく表したとてもおもしろい歌があります。
鳴かぬなら殺してしまえほととぎす
鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす
鳴かぬなら鳴くまでとうほととぎす
信長短気秀吉巧みさ家康気長さ本当にうまく表していると思います。
江戸幕府全国に分けて、大名を置いて治めさせました。
また、人々は士農工商という身分定められ、武士一番上で、農民町人支配しました。
農民勝手に自分達の土地離れることはできませんでした。
平安時代勢力のあった貴族達は長い戦国時代すっかり領土を失い、無力存在になっていました。
江戸幕府は、ほかの大名達が経済的な力を持つと不利になるとみて、いろいろな事業大名達にさせました。
家康祭っ日光東照宮らせたり、参勤交代制度定め大名達が一年おきに江戸に出て幕府仕えるのを義務にし、おを使わせたのです。
また、鎖国と言って、外国との交際一切禁止しました。
このような政策制度実際化して、武士中心社会築いたのは家康代々続いた子孫達ですが、この長い江戸幕府を開き基礎を作ったのが徳川家康です。