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シーボルト

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1639年、江戸幕府鎖国政策始めると、外国人の日本への出入りオランダ人以外ほとんど限られ、日本人も外国へ出ることを完全に禁止されました。
このため、日本はそれから250年もの間、外国からの影響がほとんどない日本独自文明文化発達させました。
しかし、この鎖国政策影響受けたのは日本国内生活だけではありません。
海外における日本についての知識情報がほとんどありませんでした。
特にヨーロッパで自然科学発達するにつれ一体全体東洋にある小さな島国、日本という国はどんな国なのかと疑問を持つ人々が増えてきました。
このような好奇心を持った人の一人が、ドイツの医学界名門に生まれたシーボルトです。
シーボルトは医学だけでなく薬学植物学動物学地理学人種学などを学び24で大学を卒業し同時に国家試験見事パスして博士号を取りました。
そして、この未知の国、日本について研究する決心をして、1823年、オランダ人医者として長崎出島にやって来ました。
鎖国時代にヨーロッパ人の中で幕府が日本へ来ることを許していたのはオランダ人だけで、そのオランダ人も、出島という長崎港にある小さな人工の島にだけ住むことを許されていました。
しかし、その当時蘭学といって、このオランダ人通してヨーロッパの自然科学特に医学が、少しずつ入って来ていました。
そして、日本の中でも優秀な医者学者達は、この長崎に来て蘭学勉強していました。
この医学第一人者、シーボルトが出島に来ると、このような日本の医者学者達が、シーボルトが長崎に住むのを許可するように幕府頼みました。
そのような努力実って、シーボルトは鳴滝塾という塾を長崎開いて熱心な日本人達に医学だけではなく、薬学植物学動物学地理学人種学方法などを教え有名幕末学者達を養成しました。
シ−ボルトの名声聞いて訪れた病人の中には、など内臓病気だけでなく骨折負傷している人達もいました。
また、こうして自然科学教えたり病人治したりするかたわら、自分自身一生懸命日本について研究しました。
一秒も惜しまず顕微鏡しがみつき、日本の植物昆虫土壌などを調べました。
当時出島オランダ人代表将軍お礼をすると言うので、一年に一度江戸贈物を持って行ったのですが、それにシーボルトも加わって江戸にも行きました。
この時、日本について大分観察したようです。
また、江戸では日本の代表的学者達に会うことができ、様々な情報集めることができました。
これらの情報資料をのちにヨーロッパに持ち帰り、「日本」、「日本植物誌」、「日本動物誌」などという書に著し未知の国、日本をヨーロッパの人々に紹介したのです。
しかし、鎖国中の日本からこれらの情報資料を持ち出すということは、容易なことではありませんでした。
シーボルト事件として有名できごとですが、シーボルトが乗って帰るオランダ九州沿岸ものすごい暴風雨にあい、修理のためにもう一度り、荷物から降ろさなくてはならなくなりました。
その時降ろされたシーボルトの荷物の中から、海外に持ち出すことを禁止されていた印刷物や日本の地図が見つかってしまったのです。
そのため、シーボルトと親しかった日本人の学者達が数人死刑となり、シーボルトも国外追放になって、日本に二度とれない受けました。
シーボルトには日本人との間に生まれた女の子が一人あり、その子とその母を残して二度とこのする日本へ帰ることのできなくなったシ−ボルトは、断腸の思い長崎去って行ったに違いありません
しかしその後、日本の政情変わり日本が開国すると、シーボルトの許されて再度日本へり、尊王攘夷などで荒れる日本で、幕府顧問として外交政策助けをしました。
「日本人は決して忘れない国民である。また決して不義をも忘れることはない。」と言ったシーボルトは、心から日本と日本人をし、日本のために、日本の内外尽くした人の一人です。