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出来事

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七月末の風の少しもない暑い午後だった。
私の乗っている電車広い往来水銀を流したような線路の上をただ真直単調な響を立てて走っていた。
人通り殆どなかった。
見渡したところでは人造石の高い塀の前に出ている大道アイスクリーム屋と、其処にしゃがんで扇を使っている客と、それだけだった。
二人の上には塀の内から無花果が物倦そうに締まりのない枝をさし出している
その葉は元気なく内へまきかけて、乾き切った薄ほこりに被われて気味悪そうに凝っと動かずにいた。
私は一番前の窓に倚りかかって唯ぼんやりとしていた。
それでも生温かい風が少しは通す。
汗のにじみ出た手には読みさしの雑誌が外へ折り返したまま巻いてある。
一つ停留所へ来た。
降りる人も乗る人も無いので電車そのまま退屈そうに又次停留所まで走った。
此処肥った四十位の女が乗って来た。
片手毛繻子小さ洋傘を持って、もう一つの手には濡手拭を持ち、それで頻りに咽のあたりを拭きながら入って来た。
女は汗ばんだ赤い顔をしていた。
それに物捲い眼ざしを向けた乗客もあったが、大概半睡以前からの姿勢で只ぐったりとしていた。
乗客は八、九人あった。
私の前に電気局の章のついた大黒帽子をかぶった法衣着の若者がかけていた。
若者不機嫌な顔をしてうつらうつらとしている
その次に麦藁帽子の鍔を深くおろした二人連れ書生二人ながら股を開いたいかつい姿でよく眠入っていた。
素足にかかったほこりが油汗黒くにじんで、それから脛の方に白くぼかしたようにかかっているのが、暑苦しいきたない感じをさせた。
その次に洋服を着た五十以上の小役人らしい大きな男がかけていた。
よごれたまがいパナマ後ろへずらして、股の間に立てたステッキに顎をのせてポカンと何を考えるともない思い切って気のない顔をしていた。
目は開いているが視線焦点がない。
それでも私に見られていると云う意識はあったらしい。
今度背後へ倚りかかって薄目を開いて又ぼんやりとして了った。
すると又急に掌に丸め込んでいた毛ば立った木綿ハンカチでそのぬけ上った広い額拭ったりした。
私も強い日光にもう目をはっきりとは開いていられなかった。
まぶたを細くして物を見ている、それすらつらい。
その内にこのジリジリとしたおさえつけるような不愉快暑さ不当体刑ででもあるように私には不平な心持で感じられた。
雨に雨具考え寒さ防寒具考える人間暑さだけをこう真正面に受けて、それで弱り切っている、いかにも腑甲斐ない事だと云うような事を考えた。
窓から不意に白い蝶が飛び込んで来たのを見た。
蝶は小さいゴムマリをはずますように独り気軽に、嬉しそうに、又無闇せっかちに飛び廻った
電車依然物捲い響を立てて走っている。
悩み切った乗客自分何の目的で何処まで行くかも忘れたように唯ぐったりとしていた。
蝶は既に何町か運ばれたが、それも知らず、唯はしゃぎ独りふざけている。
この眼まぐるしいひょうきん者の動作厚い布でも巻き附けられたような私の重苦しい頭をいくらか軽くしてくれた。
蝶は不意に二三度続けさまに天井にぶつかった。
しかし止りそこなった。
そして下の芝居広告へ行って止った。
真黒木版ずりで別誂玄冶店とある、そのかんてい流の太い字から、厚化粧の、深い光を持った真白い羽根浮上っているのが美しく見えた。
蝶はさんざんはしゃいだ後の息でもついているように急に凝っとしてしまった。
電車は同じように退屈に唯走った。
乗客も同じように半睡状態ぐったりしている
私もいつか又何も考えなくなった
あるダル数分間が過ぎた。
私は運転手の妙な叫び声で急に顔を上げた。
そしてその方を見た時に小さい男の子が今電車の前を突切ろうとするのを見た。
子供此方を見ようともせずに一生懸命に駆けている。
然し外見からはそれは極く暢気な駆け様だった。
しかも、その時は未だ子供線路内に入ってはいなかった。
運転手大声何か云いながら急いでブレーキを巻いた。
電車ももう余程のろくはなっていた。
が、それは直角交わる線を子供電車もその交叉点へ向ってのろいなりに馬鹿々々しい鉢合わせをする為に走っているようなものだった。
しかもその時は既にどうすることも出来ない事のように思われた。
子供の姿が運転手台の前のてすりのような物のむこうへ隠れると同時にガチャンと音がした。
電車そのまま一間ばかり進んだ。
私は反射的に急に居耐らない心持からいつか車掌居る一番後のところまで自身をのがしていた。
私は一人動揺する心持をぐっとおさえて人々背中を見て立っていると、小時して急に子供大きな泣き声が起った。
ほっとした。
(このほっとした心持は遥に多く主我的な喜びであったように思う。
然し私にはこの心持は後で却って愉快に思えた。)
私は近よって行った。
そして人々の間から窓の外を見た。
もうその辺の家々から人々が集っていた。
烈しく泣く子を抱き上げて今まで私の前に居た電気局の若者何か罵りながら恐ろしい顔でその辺を見廻している
若者は気が立ったように成っていた。
子供手拭地の短い甚平さんを若者の掌と一緒に胸までたくし上げられてその肉附きのいい尻を丸出にし、短いくびれた足をちぢめて無闇大きな声で泣きわめいていた。
頭の大きな汗もだらけなその醜い顔は一層可笑しく見えた。
大丈夫々々々」と車掌子供の尻をなでながら云っていた。
若者怒ったように、
「一寸、もっとよく見てくれよ」と云うと、子供逆様に尻の方を高くして見せた。
小役人らしい大きな男もいつの間にか其処に立っていて、
「よく見なくちゃいかんよ」と心配そうに覗き込んでいた。
大丈夫です、かすり傷もありません」車掌は一ト通り叮嚀に調べて云った。
少し離れた処で機械ハンドルを下げて、何の表情無い顔をしていた運転手冷淡な調子で、
「又うまく網へ乗っかったもんだ」と云った。
それを聴くと、
「ええ!実にうまくやったね」と小役人はすぐその方を振り向いた
「やいやい」子供抱き上げていた若者は又大きな声をした。
自家の奴はどうしたんだナ」
「今迎いに行ったよ」見物一人が答えた。
今まで泣きわめいていた子供は身を反らし若者の手から逃れようともがき始めた。
若者怒る子供は尚あばれる。
そして今度若者の顔を真正面から撲りにかかった。
「此畜生若者は可恐い顔をして子供睨みながら抱いている手をのばし、子供自分身体から離した。
小役人は古いパナマをまだ後へずらしたまま、何となく落ち着かない様子でその辺をうろうろしながら一人小声で、
「うまくやった。
実にうまくやった。」
と云っていた。
そして子供へ近よると、
「もう泣かなくていい」こう云いながら、涙と、汗とほこりとできたなく隈を取ったその頬を撫でた
あばれていた子供もこの善良小役人を撲ろうとはしなかった。
小役人中腰になって子供の尻から足の辺りを調べて見た。
子供はもう凝っとされるままになっていた
「おお、こりゃいかんぜ」こう小役人大きな声をした。
人々の散らばりかけた注意が急に集まると、
小僧さんいつの間か小便をひょぐっとる」と云った。
人々はどッと笑った。
若者は黙って眼に角を立てたまま自分の胸を見た。
縮のシャツ鳩尾から下へぐっしょりと濡れていた。
人々は又どッと笑った。
子供のくびれたももに挟まっている五分瓢程の綺麗な似指の先はまだ湿っていた。
「マ、この餓鬼呆れたぜ」若者子供抱き寄せるようにして顎でその頭をゴツンゴツンと撲った。
子供は又烈しく泣き立てた。
まあまあ小便位いいさ」小役人なだめるように云った。
その時、
「来た来た」見物の中からこう云う声が聞えて、むこうから四十以上の色の黒い醜い女駆けて来た。
女は興奮していた。
そして若者の手から子供を受け取ると直ぐ、
馬鹿!」とその顔を烈しく睨みつけて、いきなり平手続け様にその顔を撲った。
子供一層大きな声を出し、泣きわめいた。
女は、足をばたばたさせる子供をぐいと抱き締める二三度強くゆすぶって、又、「馬鹿!」と云った。
わきで可恐い顔をしていた若者はその時喧嘩腰に、
オイ全体お前が悪いんだぜ」と云った。
それから二人は云い合いを始めた・・・・・・
それとは又全く没交渉小役人は或興奮から独言を言いながらその辺を歩き廻っていたが、運転手がもう運転手台へ帰っている、其処へ行くと、又、
「君、実にうまくやったね」と云った。
彼は殆ど無意味ステッキ救助網叩いた
そして又
「君、こんなうまく行った事はないよ。
ええ、この網が出来て以来こんな事は初めてだ」と云った。
彼の快い興奮を寄せるにはそれは少し内容の充実しない言葉だった。
彼はもっと云いたいらしかった。
然し自分でも満足出来るような詞は出なかった。
それに運転手割に冷淡な顔をしていた。
もう人だかり大分減った。
自分の家の軒の下まで帰って、其処から立って見ている人の方が多くなった。
女は車掌には切りに礼を云っていた。
子供も母のだらしなく垂れ下がった大きな乳房に口も鼻も埋めてすっかり大人しくなって了った。
若者小役人も車内へ入ってきた。
女は子供の下駄を拾って帰っていく。
電車は動き出した。
若者は勢よく法衣を脱ぎ、そして小便に濡れたシャツ脱いだ
しまった肉附きの、白い肌が現れた。
彼はシャツの濡れたところを丸め込んで、それで忙しく鳩尾から下腹の辺を拭いた
肩から腕、胸あたりの筋肉気持よく動く。
若者が一寸顔を上げた時向かいあいの私と視線が会った。
往生々々」と云って若者は笑った。
先刻の気の立ったような恐ろしい表情は全く消えて善良気持のいい、生き生きとした顔つきになっていた
四十位の肥った女と小役人とがむこうで何かしている
小役人は手附きをしながら熱心何か云っている。
書生二人で話を始めた。
暑さにめげて半睡状態にいた乗客は皆生き生きした顔附きに変わっていた。
私の心も今は快い興奮を楽しんでいる。
ふと気が附くと、芝居広告に止まっていた無邪気なひょうきん者はいつか飛び去って、もう其処には居なかった。