Instructions: Use the button to listen to a sentence.

お弁当

Listen to Whole Story

自分中流である、と思っている人が九十パーセント占めているという。
この統計新聞で見たとき、私はこれは学校給食影響だと思った。
毎日一回、同じものを食べて大きくなれば、そういう世代増えてゆけば、そう考えるようになって無理はないという気がした。
小学校の頃、お弁当時間というのは嫌いでも、自分の家の貧富家族愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であった。
豊かなうちの子は、豊かお弁当を持ってきた。
大きいうちに住んでいても、母親がかまってくれない子は、子供にもそうと判るおかずを持ってきた。
お弁当箱もさまざまで、アルマイト新型で、おかず入れが別になり、汁が出ないように、パッキングのついた留めのついているのを持ってくる子もいたし、何代目お下がりなのか、でこぼこになった上に、上にのせる梅干酸化したのだろう、真中に穴のあいたのを持ってくる子もいた。
当番になった子が、小使いさんの運んでくる大きなカンに入ったお茶をついで廻るのだが、アルミコップを持っていない子は、お弁当箱の蓋についでもらっていた。
蓋に穴のあいている子は、お弁当を食べ終わってから、自分でヤカンのそばにゆき、身のほうについで飲んでいた。
ときどきお弁当を持ってこない子もいた。
忘れた、と、おなかが痛い、と、ふたつの理由繰り返して、その時間は、教室の外へ出ていた。
砂場遊んでいることもあったし、ボール蹴っていることもあった。
そんな元気もないのか、羽目板に寄りかかって陽なたぼっこをしているときもあった。
こういう子に対して、まわりの子も先生も、自分の分半分分けてやろうとか、そんなことは誰もしなかった。
薄情のようだが、今にして思えば、やはり正しかったような気がする
ひとに恵まれて肩身のせまい思いをするなら、私だって運動場ボール蹴っていたほうがいい
お茶の当番にあったとき、先生にお茶をつぎながら、おかずをのぞいたことがある。
のぞかなくても、先生教壇一緒に食べるので、下から仰いでもおよその見当はついたのだが、先生のおかずも、あまりたいしたものは入っていなかった。
昆布佃煮と切りいかだけ。
刺し一匹にたくあん。
そういうおかずを持ってくる子のことを考えて、殊更つつましいものを詰めてこられたのか、それとも薄給だったのだろうか。
私がもう少し利発子供だったら、あのお弁当時間は、何より政治経済社会について人間不平等について学べた時間であった。
残念ながら、私に残っているのは思い出感傷である。
東京から馬鹿島へ転校した直後のことだから小学校四年のときである。
すぐ横の席の子で、お弁当のおかずに、茶色っぽい見馴れない漬物だけ、という女の子がいた。
その子は、貧しいおかずを恥ずかしく、いつも蓋を半分かぶせるようにして食べていた。
滅多に口を利かない陰気な子だった。
どういうきっかけか忘れてしまったが、何日目かに、私はその漬物をひと切れ、分けてもらった。
これがひどくおいしいのである。
当時馬鹿島の、ほとんどのうちで自家製にしていた壺漬なのだが、今みたいに、坐っていて、日本中どこの名産食べ物でも手に入る時代ではなかったから、私は本当にびっくりして、おいしいおいしいと言ったのだろうと思う。
その子は、帰りにうちへ寄らないかという。
うんとご馳走して上げるというのである。
小学校からはかなり距離のあるうちだったが、私はついていった。
もとはなにか小商い(こあきない)をしていたのが店仕舞いをした、といったつくりの、小さなうちであった。
彼女の姿を見て、おもてで遊んでいた四、五人の小さな妹や弟たちが彼女一緒にうちで上った。
うちには誰もいなかった。
私は戸締りをしていないことにびっくりしたが、すぐにその必要がないことが判った。
そのうちはちゃぶ台のほかは家具何ひとつ無かったからである。
彼女は、私を台所へ引っぱってゆき、上げ蓋を持ち上げた。
黒っぽいカメに手をかけたとき、頭の上から大きな声でどなられた。
働きに出ていたらしい母親が帰ってきたのだ。
きつい訛りで「何をしている」と言って叱責する母親向かって彼女はびっくりするような大きな声で、
東京から転校してきた子が、これをおいしいといったから連れてきた」
というようなことを言って泣き出した。
母親立ち向う、という感じだった。
帰ろうとする私の衿髪をつかむようにして、母親は私をちゃぶ台の前に座らせ、丼いっぱいの壺漬を振舞ってくれた。
この間、三十八年ぶりで馬鹿島へゆき、ささやか同窓会があった。
この人に逢いたいと思ったが、消息が判らないとかで、あのときの礼はまだ言わずじまいでいる。
女子供お弁当は、おの字がつくが、男の場合は、弁当である。
これは父の弁当のはなしなのだが、私の父はひと頃、釣に凝ったことがある。
のぼせると、何でも本式にやらなくては気の済まない人間だったから、母も苦労をしたらしいが、釣に夢中になっていて弁当流してしまった。
はなしの具合では川、それも渓流らしい・茶店などある場所ではなかったから、諦めていると、時分どきになったら、すこし離れたところにいた一人の男が手招きする。
弁当一緒にやりませんか」
辞退をしたが、余分があるから、といって、父のそばへやってきた、弁当をひろげてみせた。
世の中に、あんな豪華弁当があるのかと思ったね」
色どりといい、中身といい、まさに王侯貴族弁当であったという。
あとから礼状でもと思い、名前を聞いたが、笑って手を握って答えなかった。
その人とは帰りに駅で別れたが、その頃としては珍しかった外国産の大型車迎えにきていたという。
何年かあとになって雑誌グラビアでその人によく似た顔をみつけて、もう一度びっくりしたという。
勅使河原蒼風氏だったそうな。
人違いじゃないのと言っているうちに父は故人になった。
あの人の花はあまり好きではなかったが、親がひとかたけの弁当を振舞われたと思うせいか、人柄にはあたたかいものを感じていた。