Instructions: Use the button to listen to a sentence.

拝借

Listen to Whole Story

「悪いけど口紅貸してくれない」
いきなり声を掛けられた
ホテル洗面所で、口紅をつけ直していた時だった。
声の主は、隣りで化粧直ししている、やっと廿歳(はたち)という女の子だった。
私は、お金以外ものならおっちょこちょいなほど気前のいい人間だと思っているが、この時だけはためらった。
姉妹友達なら兎も角、見も知らない人間口紅貸すのは、正直言って嫌いだった。
女の子はせいいっぱいお酒落をしていた。
模造毛皮の半コートの下から華やかな色のドレスがのぞいていた。
顔も満艦飾だったが、眼の化粧濃い分だけ何も塗っていない白い唇が異様に見えた。
「悪いけど・・・・・」
紅を拭き取った紙を手に、女の子はもう一度くり返した。
その目は必死だった。
恋人が外に待っているんだな、と見当がついた。
食事のあと、口紅バッグの中にあると信じて、紅を拭き取ってしまったのだろう。
この顔では、出る退くも出来ないのである。
私は、口紅の先を紙で拭い、「どうぞ」と差し出した
彼女は、鏡に顔を近づけ、情重に紅をつけた。
だったら、まず指先に紅をうつし、それを自分の唇に移すけどなあ、と思ったが、勿論口に出しては言わなかった。
塗り終わると、彼女大きな溜息をつき、ケースにもどして、
「どうも」
と返してくれた。
使ったあと、紙で拭うことはしなかった。
受取る私の顔のどこかに硬さを見たのか、彼女あわててお礼追加をした。
ありがとうございました!」
テレビの歌番組新人歌手司会社におじぎをする――そんな感じだった。
彼女自分バッグをつかむと、ドア体当りするように勢いよく出て行った。
口紅貸してくれと言われたのは初めてだが、眉墨貸してと言われたことは、今までにも経験がある。
私が脚本を書いていたテレビ番組打ち上げパーティが夜の十時ごろからあるというので、その番組に出ていた主演女優が、一緒に行きましょうよ、と少し早目に私の家をたずねて来た。
お茶をのみ、世間ばなしをして、私は仕事着をよそゆきに着がえ、女優洗面所化粧直しはじめた。
女優は、その前に二つほど写真撮影インタビューがあったとかで、話している途中でも、化粧崩れを気にしていた。
ワンピース頭からかぶったところで洗面所から声がかかった。
「恐れ入りますが、眉墨拝借
というのである。
あると思って、落としてしまったら、持っていなかったという。
困ったことになった。
私は、裏方仕事していることでもあるし、もともと横着なたちで、化粧道具白粉おしろい)と口紅がやっとという人間である。
眉は天然で済ませてきたし、目の廻りを黒く彩る道具も持ち合せてないのである。
無いというと、女優の声は、急に悲劇的になった。
「どうしょう。
このままじゃ出られないわ」
そっとドアを開けると、鏡に美しく化粧した眉のない顔が写っている。
時代劇とかけ持ちでもしていたのか、眉は全く見当らず、これでお歯黒をつけたら、平安朝あたりの上臈じょうろう)の頭である。
凄艶であり、ドラマでは見せない追真のクローズアッブでもあった。
鉛筆はどうかしら。
3Bがあるけど」
鉛筆なんかじゃ駄目ですよ」
この時間では、近所化粧品店も店を閉めている。
アパート管理人奥さんにわけを話して――と考えかけたら、女優いきなりこう言った。
マッチ、擦って下さい
私は言われた通り、マッチ擦った
炎がついたら、先の丸い玉のところだけを燃して、口で吹き消す
消えたところで、玉を落すと、燃え残りマッチの軸は、眉墨の棒になる。
窮すれば通じるのである。
私は、十本ほどのマッチ次々に擦って手渡しながら、安堵(あんど)のため息をついた。
「濃過ぎるわねえ。
金太郎になっちゃった」
女優は、髪を明るい栗色染めていたから、黒い眉は、たしかにそこだけ勇ましく見えた。
大丈夫大丈夫
無いよかいいわよ」
私は、せいいっぱい励ました
その夜のパーティで、女優は壇に上り挨拶をした。
内気で声の小さいこの人が、この夜は堂堂としていた。
金太郎の眉のせいかも知れないと思い、私は会場の隅から大きな拍手を送った。
大きいお金は、借りない、貸さないで暮らしているが、細かいお金貸し借りはよくある。
ハンカチ、ちり紙、櫛なども、ちょっと拝借することがある。
顔を貸せ、と凄まれたこともないし、知恵を貸せ、といわれるほとの人間でもないが、手を貸せ耳を貸せは、時々聞くことがある。
私が聞いたなかで、一番びっくりしたのは、いきなり靴下を貸せ」といわれたことであろう。
二十年、いやそれ以上前のはなしだが、明大前乗り換え電車を待っていた。
当時勤めていた出版社仕事筆者の家へ原槁を取りにいった帰りだったと思う。
時刻夕方であった。
季節は忘れたが、真夏ではなかった。
突然名を呼ばれ、肩を叩かれた。同
同年輩の女である。
何年ぶりかしら。
懐かしいわねえ」
感激様子で名を名乗るのだが、申しわけないことに私は記憶がない。
父の仕事関係で、学校は七回も変っている。
短いところでは、一学期もいなかったのだから、今迄にもこういうことは何度かあった。
せっかくの気分水をさすのも悪いと思い、私も懐かしいなあ」と調子を合せた。
そこで、彼女に言われたのである。
お願い靴下貸して
電車の中で引っかけて、大きな伝線病を作ってしまった。
これから気の張るところへ出掛けなくてはならない
済まないが、あなたのと取り替えて欲しいという。
成程、膝(ひざ)小僧の下から幅五センチほどが、茶色のスダレのようになって足首まで走っていた。
私は絶句してしまった。
気の張るところではないが、私だって日本橋勤め先まで帰らなくてはならない
だが、彼女は、私の手首握ると、そばのベンチ押しつけるように坐らせ、靴下を脱ぎはじめた。
当時パンティストッキングなどなかったから、こんな芸当も出来たのである。
それでも、スカートをかなり上までたくしあげなくては、出来ない芸当であった。
その格好に、少し崩れたものを感じた。
仕方がない。
私もそっと彼女にならって、靴下脱いだ
名刺頂戴
必ず返す」
彼女手早くはき替えると、ちょっと拝むような手つきをして、階段をかけ上って行った。
私は破れた靴下を駅のくず箱に捨て、素足で帰ってきた。
彼女からは、その後、何の音沙汰もなかった。