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マスク

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舗道マスクが落ちていた。
赤い公衆電話のすぐ足許である。
電話をかけようとしてポケット小銭を出したときに、中に入っていたマスクをつまみ出してしまったのか、しゃべるためにはずした拍子に落したのか、いずれにしても電話利用した人の落し物であろう。
真新しいものではなく、うす汚れていろが、落ちている間に汚れたかも知れない
この冬も風邪はひいたが、マスクのご厄介なるほどではなかった。
ポケットにしまっておいたマスクを鼻にもっていった時の、寝臭いような息の匂い、人懐しいような湿った匂いを思い出した。
十五、六年ほど前のクリスマスイブのことだった。
その頃、私はラジオディスクジョッキー原稿を書いて暮らしていたのだが、持ち前締切守れない癖はその頃からで、世間のひとがパーティだなんだと浮かれているというのに、私はねじり鉢巻仕事をしていた。
次の日の正午までにタイプ台本にしておかなくては録音間に合わないというのだが、年に一回のイブである。
当時クリスマスは今よりにぎやかで、街にはジングル・ベルのメロディ流れ家路急ぐ人もケーキやとりの丸焼を抱えていないと肩身がせまいというところがあった。
怠けもののライターのために、局のポロデューサーに残業させては申しわけない。
私は自分印刷所届けますと、地図を書いてもらった。
ラジオテレビ台本は、例外もあるが、ほとんど家内工業的な小規模な街の印刷所で作られているのだが、その夜、私のたずねた先は、そのまた下請けをする、内職タイプ打つ人の住まいであった。
場所は、たしか、麻布二ノ橋だったと思う
かなり夜も更けていたが、おもて通りにはまだイブのざわめきがあった。
だが、通り一本裏へ入ると、街灯暗く表札はっきり読み取れない
二、三回通りすぎてからやっと、町工場のような、半分しもた屋のようなうす暗いそのうちを見つけ出すことが出来た。
声をかけると、四十がらみの女のひとが出て来て原橋を受取ったのだが、そこで私はひどくどなられた。
風邪っ気らしく、彼女マスクをかけていたので、はじめは何を言っているのか聞きとれなかったが、やがて聞きとることが出来た。
「あんたねえ、帰ったら先生に言って頂戴よ。
あんたのとこの先生の字は、すごく読みにくいのよ。
打つほうの身になって、もう少し判りやすい字、書いて下さいって、そう言ってよ」
Gパンに突っかけサンダルの私を使いの者だと思っているらしい。
私は、今でも先生などと呼ばれる人物ではないし、まして十五年前は、そうだったが、どこの社会でも字を書いて暮らしていると、こう呼ばれることもある。
私は、申しわけありませんと最敬礼をした。
「帰ったら、よく伝えます」
「そうよ。
倍、手間がかかるんだから」
言いながら、その人は、不意に語調弱くなった。
どうやら私が本人だと気がついたらしい。
よろしくお願いします頭を下げて出ようとする私を呼びとめ、
「いま、お茶を入れるから」
土間ガス・ストープの上で、湯気を上げているヤカンをチラリと見てから、茶の用意をはじめた。
暗い電灯に目が馴だということが判った
せまい店の三方が、天井までこまかく仕切りをした棚になり、そこに何百本というヤスリが大きさ太さによって分けて突っ込まれている。
しかもそのヤスリは新品ではない
店の一隅事務机があり、その人はそこでタイプ内職しているのである。
その人は、ヤカンをおろそうとしてためらった。
把手(とって)が熱くなっていたらしい。
彼女自分マスクをはずし、それで把手をつかんでお茶をいれた。
タイプ打つとき、カーボンを使うせいか、マスクは黒く汚れていた。
布巾代りにマスクというのは、考えようによって無精ったらしいしぐさである。
だが、私は嫌だと思わなかった。
ここでは、そのほうが似合うような気がした。
黒いザラザラした、三方から突き刺さりそうなヤスリの山に囲まれ機械油匂いの中で一字一字、人の書いた字を拾って打つ人の気持を考えた。
その人は黙って、うすいお茶をすすっていた。
私も黙ってお茶を頂いた。
二人とも白粉気のない顔をしていた。
イブには不似合な身なりであった。
お茶をのみ終えると、その人は、また黒いマスクをかけた。
私は、もう一度、深くおじぎをしておもてへ出た。
気障(きざ)な言い方だが、「最夜」ということばを感じたクリスマスは、このときだけである。
あれは小学校何年のときだったろう。
クリスメートで、マスクのことを、「鼻マスク」という子がいた。
クラスで一番背の低い女の子である。
みんなで、おかしい言い出した
言い出したのは、私だったような気がする
マスク鼻にかけるものと決っている。
わざわざ鼻マスクとことわることはないじゃないの、と、はっきり言えばいじめたわけである。
彼女必死に抗弁した。
「でも、うちじゃそういうもの。
うちのお母ちゃん、そう言ってるもの」
言いながら泣き出して、泣きながら帰って行った。
次の日、だったかどうかはっきりしないが、鼻マスク女の子は、ちょっと胸を張って私たちのところへ来た。
「うちじゃね、これ、耳マスクというんよ」
彼女が見せたのは、兎の毛皮を丸く輪にした、耳にあてる防寒具であった。