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唯我独尊

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同じ料理でも自分で作って食べるより他人様ご馳走になるほうがおいしい
「思いもうけて」、つまり期待して食べるゆえである、と方丈記かなにかにあったような気がするが、うろ覚えだからあまりあてにならない
キエ子夕食のお招きに預った。
彼女中年にして独身
仕事を持って働いている女である。
悪い人間ではないのだが、時間観念欠けるところがあり、仕事期限や待合せには必ず遅れる。
自分は遅れる癖に、他人が遅れようものなら、中ッ腹になって顔に出す。
ただし稀代食いしん坊なので、ご馳走つきとなると万障繰り合せ、誰よりも早く到着する癖があった。
その後はとりわけおいしいので評判高い料理店招かれたこともあり、キエ子は主人側より先に席に着いてお待ちするはしたなさであった。
食事は結構ずくめであった。
特に鮑(あわび)のグラタン絶品で、キエ子座頭市のような目つきになり、うっとり溜息をつきながら口だけはせわしなく動かしていたところ、いきなり口の中でガツンときた。
貝殻破片でも入っていたかと、主人側に判らぬよう気を遺いながら、そっとナフキンで受けてみたところ、何と金冠である。
キエ子は腕が悪くなった。
カウンター向う側で、指図をしたり味見している初老シェフ料理長)がいる。
虫歯ありそうな顔をしているからあの男のに違いない
キエ子は、子供の頃呼んだ漫画の「フクちゃん」を思い出した。
たしかおみおつけかなにかの中から腕時計が出てくるのがあった。
同じ金でも腕時計ならまだ許せる。
友人戦争直後闇市で、一杯十円で食べた進駐軍残飯シチューの中に桃の種子が入っていたと聞いたことがあったが、それも戦争直後である。
戦後三十四年もたって一流料理店グラタンから金冠とは何事であるか。
だが、ここで騒ぎ立てては、招いてくださった主人側は恐縮するであろう。
招待客自分ひとりではないことだし、折角晩餐(ばんさん)を台なしにするのは本意ではないので、金冠はさりげなく来るんでバッグ仕舞った
「それ以上デブになると後妻口に差支えますので」
下手冗談ごまかしグラタンそのまま残したが、それから先の料理は胸がつかえて味も何もあったものではなかった。
キエ子腹立ち一晩中納まらなかった
バー一軒廻って帰ったので、今晩はもう間に合わないが、明日電話でどなってやる。
みるのもおぞましい証拠物件も、ちゃんと取ってある。
それが原因で、あのシェフは職を失うかも知れないが、その位は当然である。
情けをかけることなどあるものか。
内聞にして下さいと、ケーキを持って詫びに来ても、断じてケーキは受取らないぞ。
「あなたは見ず知らずの人の使った歯ブラシで歯を磨くことが出来ますか。
人の入れ歯をはめることが出来ますか。
私はそういう思いをしたのですよ。
れにくらべたら、髪の毛ゴキブリの方がまだ可愛気がありますよ。
引き取り下さい
年代ものウインということも考えられるが、ここで、ご丁寧になどと目尻を下げてはいけないのである。
新固スジを通さねば――と考えているうちにまた胸がムカつき、怒りくたびれて眠ってしまった。
ところが、朝になり歯を磨こうとして口に水を含んだら、奥歯のあたりが沁みるのである。
金冠自分のであった。
歯が丈夫なの自慢にしていたのでコロッと忘れていたが、八年前に小さ虫喰い出来て、金冠をかぶせていたのである。
キエ子にはこの類(たぐ)のしくじりがいくつもある。
彼女はこの二、三年、ひそかに日本印刷事情について憂うるところがあった。
週刊誌カラーグラビア印刷がズレている。
一番ハッキリしているのは人間の眼で、真中黒目が必ずハミ出している
彼女はもと雑誌編集をやっていたので、これは製版のズレによるものだと判っていた。
高層ビルだとか、なんだとか上ばかり見て調子づいているが、こういう小さなことは積み残しではないか
グラビア目玉がズレていて、白目の外に黒目玉がくっついて、大平さんも山口百恵も赤ンベエをして、文化国家もないもんだ。
そういえばたるんでいるのは印刷関係ばかりではない
鉄鋼関係もなっていない。
その証拠に、此の頃縫針出来悪さは、まさに目を覆うのがある
三本に一本は、針目潰れている。
作りがズサンなのかごみがつまっているのか、糸が通らないのである。
折を見て誰かに言わなくてはいけないと思っていた矢先に、ある雑誌編集者と話をする機会があった。
いい折だと思い忠告をしたところ、その人は、いきなりこう言った。
失礼だが、検眼をしたほうがいいんじゃないですか」
キエ子老眼であった。
老眼鏡出来上って、かけて見たら、週刊誌のズレていた目玉は、ピントが合うようにピタリと納まった。
針の目もみんなきちんとあいていた。
「お若くみえます」
などという他人様お世辞をまに受けて、自分ひとりは年を取らないと思い込んでいたのである。
目鏡をかけて鏡を見てみたら、顔のしみもよく見えた。
髪を分けたら、知らないうちに自髪が増えていた。
世の中自分ひとりがすぐれている。
私のすることに間違いのどあるわけがない
違っているのは相手であり世間である。
天上天下唯我独尊は、お釈迦様ならいいが、凡俗がやると漫画である。
きみりが悪いのでキエ子と書いたが、この主人公の本当の名は、邦子である。
つまり、私なのである。